· 

一年の黄昏どきに吾思ふ、自分の命の使い道。

一年の黄昏どき秋分ということで、限りある自分の命の使い道について感じてみました。

私のなかにあるヴィジョンです。抽象的な感覚ですが、今、あえて言語化してみたいと思います。

 

 

私がこの世界で、表現したいもの。繋ぎたいもの。響かせたいこと。

 

1.まず、全体性への回帰。

「個人としての全体性」

「集合体(コミュニティ・社会・地球)としての全体性」

 

生きとし生けるすべてのものは「個=全」である、この地平に立つことで、人に備わった能力はさらに増すと思っています。それは、本能的であり、感性的であり、繊細であり、ダイナミックな生命のあり様に繋がることです。「私は何者か」「私たちはどこへ向かうのか」…この人類の大きな問いに現実的なフィールドを通して向き合いたいと思っています。

 

2.そして、情熱を情熱のままに、感動とともに在ること。

喜怒哀楽という感情、ここに凄まじい心のエネルギーが立ち現われています。このエネルギーが「まさに私は生きている」実感として、全細胞へ届き、世界へ響くエネルギーとなります。だからこそ、自分の心が動いたかどうか。それこそが、人が、世界が動き変容する原動力になります。一人ひとりの感動というこころの躍動。そこにフォーカスした場を、さらに積極的に創っていきたいと思います。

 

3.人生を謳歌するために、自らの表現(命の躍動)を拡大すること。「この世界」と「私」がより一体化するために、私は私を表現していく。表現とは、自らの心のエネルギーを発することであり、それは、自分の生命エネルギーを世界に発することともいえます。そして、呼吸するように、自らの内と外を循環していきます。

表現は、まず、自分のため。自分を満たすエネルギーです。喜怒哀楽のままに表現する。

充ち満ちる命の躍動するエネルギーは、そのまま世界へも響き渡ります。

 

4.アートはシャーマニズム。

これら3つの要素を繋ぐものとして、アートが大きな役割を果たしてくれると考えています。私自身が体感しているのは、アーティストとは、媒体者であると。

 

私の感覚で言うと、作品制作は、自己表現でありながら、自己表現ではなく世界の仲介者であるという身体感覚です。作品に現わす世界は、私自身というよりも、この世界の空気に漂う「何か」を描写していくような感覚。私は私自身が消え、透明になっていくのです。そのモードは、ゾーンと呼ばれる地平であり、リッラクスしながらも明晰に冴えわたり、自らのすべての感性、身体感覚が世界に開かれている。その瞬間、私は私でありながら世界との分離性は消え、この世界の空気に溶け一体となった感覚です。

私にとっての「アートに生きる」とはこんな感じ。自らの生身の命に触れ、地球全体の命に触れることです。

 

最近、思うのは、アートは空気である(魚でいえば水)、私たちの内側も外側も満たし、私という存在を受け止め、個と個の間を満たし繋ぎ、伝える「媒体」なのだと気が付きました。

「媒体としてのアート」を観察し捉えていくことで、「場の生成」と「人の心や創造性」との関わりがもっと具体的に見えてくるだろうと思います。

 

 

こうした視点を通して、人が心地よく生きる。人がその人らしく、謳歌しながら生きる世界をヴィジョンとして持っています。ここしばらくの5年ほどはこのために力を尽くそうと思います。そして、この状態が社会のスタンダードになったころには、ただただ遊んで暮らそうと思います 笑

きっと10年後には、個人も社会の価値観も、今とは全く異なる地平にあることでしょう。

「遊びこそが、生きること!」そんな社会の訪れを楽しみに待ちながら(笑)、今は今の空気を生きようと思います。