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隠され続けてきたもの。自分の才能を祝福する、自分のできないを明け渡す。

 

 

私たちは、自分の才能も、不得意も、見せてはいけないものとして、隠し続けてきたところがあります。

けれど、自分の得意を素直に迎え入れ、不得意を明け渡すことで、誰かと深く関係性を紡ぎ、自分の全てを解放する地平に立てるのかもしれない。それを、今、感じています。

 

例えば私の場合。

感覚や感性でしかキャッチできなかった「何か」に、色や形を与え、言葉に置き換えて、表現することができることが、私の才能。

そこには、捉えきれない何かを捕らえたいという情熱(感性・感覚的な領域)と、捕らえてみたものの得体の知れない何かを理解したいという興味(論理・構造的な領域)があります。

 

人生のほとんどをアートに捧げ、アートにこだわってきたのですが、私がアートしたいものはとても特殊な対象だったのだと気づきました。

 

つまり、私が社会のなかで生み出したいもの(アートしたいもの)。それは、街中に潜むシャドウから「人々の本質的な願いを捕らえること」で、「社会の潜在的なニーズを顕在化させ」、「命のうねりの動態(波)に関わること」だったのです。

 

この自分の根源に辿り着くまでには、「自分の本質的な願い」を自覚するだけでなく。「自分が持ち合わせている才能(能力や環境)」に深くコミットし、私自身が自分に備わった才能に敬意をもち、尊重するというプロセスが必要でした。それは、敬愛する仲間たちとの対話によって、無自覚な自分の才能を理解する場へと押し流されたことによる気づきです。

 

「さや香さんは、自分に高い才能(プロセスワークにおける'ランク')があることを、自覚していますか?受け取っていますか?」という問いをきっかけにして。

 

私のなかには錯綜した状態のアートへの想いがありました。観念、過去の経験、感情、欲望のようなものが複雑に絡み合っていたのですが、この問いを自分の手の中に抱くことで、何かが、するするとほどかれてゆき、私の手の中に現れたのは光の塊のような、「私そのものの祈り」でした。「私の存在理由」と言えるものでもあります。

「そうか、このためにこの才能や興味や違和感があったのか…」と、痛みの経験ですらも。この想いを、祈りを、この世界にいつか放出できるようにと仕組まれたギフトだった、と自己解体が起こります。

 

そしてさらに、これまでの自分が再編成されます。

これまで「アーティストである」ことを、深い足場としてもちながらも、アーティストになりきれなかった自分が炙り出されます。つまり、自己表現として自己完結するアート作品を生み出すアーティストになることへの違和感。既存のアーティスト像に留まりきれない私。

そう、私はアート作品を創りたいのではなく。

 

その人がよりその人らしく、社会という人と人の関係性が、より人をサポートする足場になるような、関係性の創造をしたいのだと、今、気が付いました。

私が人生を懸けて情熱を注ぎたいのはここなのだと。それが、私のアート。関係性をアートすること。

 

アートする(創造的になる)という人の動態の中に生まれる感性・感覚。それを捕らえて、理論化しようとする私。

この感性と理論の間を往復運動することで、形のない何かを捕らえ(狩り)、姿を与え(描く)、解体する(言語化する)というプロセスを辿っているのでしょう。つまり、創造と破壊を繰り返すことの中に生まれる人の内的エネルギーを捉えて理解したいわけです。

そして、それこそが、私の興味のど真ん中で、面白くて仕方がない。

姿のない煙のような雲のような熱のような…ここかしこに蠢く何かを、ここに、社会に出現させる。私は、コミュニティが孕むエネルギーの媒体となり、表現する、表出させる。その皮膜。それによって、社会やコミュニティのムーブメントが変化・変容していく。そうか、コミュニティの動きそのものの中に私は居て、流され呑まれながら、流れを創る。そんなことに挑戦したいのだと、こうして言語化しながら気づきます。

 

イメージとして、私たちの社会コミュニティは粘菌のように変化・変容・変遷・移動しながら、流動的に生きています。その中で、私は触手や皮膜のような存在です。たまたま触れた外側の何かと、粘菌コミュニティ内部でのニーズとを瞬間的に媒介するセンサーのような箇所、これが私の立つ位置だと理解したのです。私の力が最も発揮される場所。

人間のコミュニティが、その生命を維持し、叶うならば、より豊かに生きていけるように。それを私の使命・役割として、コミュニティ内部探査と外部探査の連絡役をしながら、どこへ向かうことが、生命の安全なのか、危険なのか、活発化するのか、沈静化するのか、成長するのか、崩壊するのか…内部⇔外部の境界線で探索を続ける一細胞です。

 

そういった立ち位置で、私の興味は、ヘルスケア・アートやホスピタル・アートに興味が注がれてきた。なぜ、論理を持たないアートやこころを捉えようと感性と論理のあいだを行き来しようとするのかも。

いま自分自身の本当の望みが、祈りが、錯綜した蠢きの中から姿を現しました。

 

既存のアーティスト像から、私自身が脱皮することで、私にしかないアイデンティティが生まれる。私にしかない可能性と共に。

これは、きっと私だけに与えられたものではなく、すべての人が、その人にしかない可能性を秘めているということです。それは、個性をとことん追究した先に、みんなと繋がる扉があるということ。すべての人に内在していて、個が全体性へと開かれていく扉。

その扉こそが創造力であり、破壊の力であり、アートの本性。野生のアートとでも言いましょうか。人の生々しい葛藤による美しさ、生き様が立ち現われる場所です。

 

この扉に多くの人がアクセスできたならば、きっと社会のうねりは大きく変容し、私たちは人類の共同体として創発しながら未来をつくる、次のステージに向かうのでしょう。

その後押しがしたい。それが、私の祈りです。

 

そのはじめの一歩は、隠され続けている「自分の才能を喜んで迎い入れ、社会に開くこと」と「自分ができないことを、得意な誰かに明け渡すこと」。

ここにとてものびやかな感触があります。